■兵児踊り(へこおどり)の由来 天正年間(1573〜1592年)、島津氏と伊東氏は激しく争っていましたが、島津氏は薩摩武士の武術の集団訓練の場として士気を鼓舞するため、陣中にて各種の戦法を取り入れ、ホラ貝、太鼓を打ち鳴らして躍らせたのが起源と伝えられています。 また、一説には、徳川幕府は天下平定の後、一国一城の令を布き、諸大名が強大となることを恐れていました。島津氏は、古来から城を以って城となさず、人を以って城となしと兵農両面の策をとって、領内各郷村に尚武の気風を奨め、表面上は農民の娯楽と称しながら、一方では青壮年に武芸集団訓練を兼ねて軍楽を舞踊化し、軍楽がすたれないようにしたものがこの兵児踊りであるといわれています。 また、島津氏にとって、郷民の中に富豪な士民がいると統率できなくなる恐れがあるため、年に1〜2回開催させ私財を費やさせる手段として奨励したともいわれています。明治初年ごろまで、小林郷中では、各区から集まって城山にて毎年盛大な郷土舞踊の催しがあり、兵児踊り等の競演が行われていたということです。 ■舞踊のようす 袴をつけ、タスキがけで手には木刀を持って踊ります。楽団の生演奏(三味線、太鼓、笛、拍子木)で、6つの演目を踊ります。 1.道楽(みっがっ) 2.本楽(ほんがっ) 3.出だし(でだし) 4.唄 5.引(ひっ) 6.狂言 生駒ファームのわたくし・冨満哲夫は、「巣ノ浦の兵児踊り 嬉ばっみろ会」に所属し、お祝いの席や記念式典などの際、踊りを披露し、地域で活動を続けています。みなさんも、兵児おどりをご覧になる機会があれば、しばし天正の時代から受け継がれてきた地域の文化にぜひ触れてください。 →からいも交流の留学生も体験。へこおどりの練習風景